凡人エリックの blog

いちこくみん「エリック」の思いを伝える場

検察庁法改正案は権力者による検察支配につながる。検察の独立した正義を守るためにもこの法案は阻止せよ!

最近「検察庁法改正案」がよく聞かれる。そして昨日はツイッターで #検察庁法改正案に抗議します のハッシュタグが約500万ツイートに達した。検察庁法改正案はそれだけ危険で、あってはならない法案といえる。この法案は安倍晋三首相が今年の1月31日に閣議決定したものだ。

 

具体的に言うと、東京高検の黒川弘務検事長の勤務を半年間延長し、8月7日までと決めたことが司法・検察の世界に波紋を投げかけたのだ。黒川氏は本来2月8日の誕生日で退任予定だった。ちなみに検察官の定年は、検察庁法によると63歳と規定。過去に一度も定年延長させた例はない。

 

それでも黒川氏の定年延長にこだわったのは安倍晋三政権の都合によるものだ。

黒川氏は元々安倍首相や菅義偉官房長官など官邸に近い存在。これまでに安倍政権関連で不起訴になった事件がいくつもある。

 

小渕優子経産相      →  政治資金規正法違反ドリル問題
松島みどり元法相      →  うちわ選挙区配布問題
甘利明元経済再生担当相   →  UR都市再生機構への口利き疑惑
下村博文文科相      →  加計学園パーティー券200万円不記載
佐川宣寿元国税庁長官以下37名 → 森友学園での公文書改竄問題

 

これを見ると、黒川氏が安倍政権にとっての守護神と呼ばれるのが頷ける。また、安倍政権下では昨年から何度も報じられている河井克行河井案里夫妻による公選法違反疑惑をはじめ、幾多ものスキャンダルがあり、それらをいずれも火消ししたいという意図が見えてくる。もし黒川氏が検事総長になれば、検察そのものが政権に支配されることになり、政権スキャンダルはいずれも闇に消えることになる。

 

だからこそ、政権の「守護神」「子飼い」と呼ばれる黒川氏の定年延長を閣議決定で決めたのは政権のワガママでしかない。しかもこの人事を正当化する為に、定年延長を法解釈変更で可能としたのは違法ともいわれる。極めつけは、解釈変更の正当化の為に、検察庁法改正案を修正し、検察の人事に内閣が人事介入できる仕組みにしようとしている。

 

だが検察は元来独立した正義を持ち、首相ですら逮捕できる権限を持っている。もし検察がなければ権力者の犯罪を追及できなくなり、権力者が独裁体制を作ることができてしまう。当然、検察は権力者側と癒着することは許されない。

 

それでも安倍政権が月日を追うごとに権力を強め、検察すら飲み込もうとするようになってきたのは内閣人事局の影響による。内閣人事局の人事を官邸が掌握することで、官僚達は官邸の顔色を窺うようになった。それが官邸への忖度を生み、森友学園改竄問題で赤木俊夫氏が自殺に至ったのもそれが背景だ。先述した佐川宣寿氏から改竄するように命じられたが、何度も断った。だが圧力に屈してやむを得ず協力し、それでも耐えかねて自殺。その佐川氏も官邸からの圧力を感じて改竄に協力することになった。
当然検察庁法改正によって、検察人事に介入することができれば、検察官すら手下にできる。せっかく首相すら逮捕できるなど、強い権限を持つ検察を官邸に支配させてはならない。

 

もし検察が権力側に支配されると、検察の独立性が失われ、権力者が悪い事をしてもそれを正すことができなくなる。それは三権分立の崩壊にもつながる。

 

こんな危険な検察庁法改正案をコロナウイルス危機のどさくさに紛れて審議入りした安倍政権はあまりに酷いのではないか。国民達は補償もままならない中で自粛を続けている。それだけ考える余裕がない状況での「不要不急の法案審議入り」は火事場泥棒ともいえる。

 

国会では立憲民主党枝野幸男代表がビシッと言ってくれた。火事場泥棒も指摘していた。対する安倍首相は「高齢職員の豊富な知識や経験を活用したい」ということだが、政権側による恣意的人事を疑わざるを得ない。今までの政権の不祥事などを考えたらそこに行き着く。

 

政権はこの法案を13日までに採決することを目指している。だが権力者による検察支配、三権分立崩壊は許してはならない。特に我々国民を守ってくれた三権分立が崩壊したら本当に安倍政権による独裁になりうる。だからこそ野党の皆様には、どんなことをしてでも検察庁法改正案成立を阻止する為に頑張ってほしい。

 

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コロナウイルス問題で大変な時に憲法改正議論してる場合か!?火事場泥棒での改憲「緊急事態条項」で人権を剥奪されるなんてふざけるな!

相変わらず新型コロナウイルスの脅威が世界的に続いている。4月8日より7都府県で発令された「緊急事態宣言」から10日が過ぎたが、ついに東京都では17日に、1日で201人の感染者が確認された。感染拡大が収まらないこともあってか、ついに政府は緊急事態宣言の対象地域を全国に広げることになった。

 

緊急事態宣言では盲点がある。思ったほどの強制力がなく、罰則も一般市民にはほとんどない。

 

一方、自粛や休業を要請するにしても、これまでは補償がままならなかった。そのため、休むと収入に影響する、あるいは休みたくても休めない企業に勤務する労働者達は相変わらず平日は満員電車ラッシュを続けてしまう。これでは最大のミッションである「コロナウイルス感染拡大阻止」にはつながらない。土日の繁華街での人の往来は減っても焼け石に水だ。

 

それだけに国民は不安や不満が高まり、より強制力を高めろという声が出るようになった。そしてここでしゃしゃり出てきたのが憲法改正を望む改憲勢力だ。

 

4月に入り、安倍晋三首相をはじめとする自民党日本維新の会を中心に憲法改正議論をしようと提案されるようになった。それ以前にもコメントした各議員の話まで含めるとおおよそこんな感じだ。
コロナウイルスを口実にした「実験台」「お手本」と、憲法をオモチャにしているのではないかという発言、さらには人権を抑えることも辞さないという発言まで見られた。

 

緊急事態条項を自分なりにまとめてみると、
・権限を内閣に集中させ、国民の権利を制限することもできる。権限の集中は一本化することでのメリットはあるが、それ以上に暴走のリスクがある。
・発せられたら、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守る ために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、基本的人権に関する規定は最大限に尊重されなければならない。
・内閣は、曖昧かつ緩やかな条件・手続きの下で、緊急事態を宣言できる。そして、緊急事態宣言中、三権分立地方自治基本的人権の保障は制限され、というより、ほぼ停止され、内閣独裁という体制が出来上がる。これは、緊急事態条項というより、内閣独裁権条項と呼んだ方が正しい。
・国会が関与できない。
・100日を超える場合は事前に国会の承認を得なければならない。

 

何より内閣が緊急事態と宣言したら、内閣は法律に基づかない人権を制限する内容の政令も制定できる。そして、それが法律と同等の効力が及ぶ。私たち国民の人権の制限できるような法律が、緊急時対応を理由にどんどん追加される危険性もある。同時に自民党の改正草案による憲法第12条と第13条には「公益及び公の秩序に反してはならない」という文言があるが、個人の人権を抑えようとしていることが明らかだ。

 

言うなれば、コロナ問題を利用した火事場泥棒だ。
緊急事態宣言では強制力がない。強制力が必要なら憲法を改正して緊急事態条項を活用するしかない。そういう方向に世間を巧みに誘導している。実際、最近の調査では「緊急事態条項の新設」に65%が賛成と出ている。しかもタチが悪いのは、日本維新の会の方がきっかけを作り、自民党が応え、自民党日本維新の会の議員達が盛り上がるという茶番劇に過ぎない事だ。

 

国民達は早く気づいてほしい。昨今自民党日本維新の会など改憲勢力コロナウイルスへの対応よりも憲法改正を優先している。要は国民の生活や命を守ることなど二の次でしかない。そんな勢力の火事場泥棒みたいなやり方によって、人権を剥奪されてもいいのか?今は平和に見えても、将来あなた方のお子さんが犠牲になってしまう。それが嫌なら緊急事態条項を伴った憲法改正に反対するしかない。もし国民投票になった場合、絶対「反対」に投票しよう。

 

今まで政治に無関心だった人々も、この問題は自分の問題だと考えてもらいたい。

 

そして政府は火事場泥棒や茶番劇はやめて、今本当にやるべきことをしっかりやれ。

 

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緊急事態宣言は政府のコロナウイルス対応初動の遅さから発するようなもの。政府のツケを国民に払わせることは絶対に認めない!

 

今年に入り、新型コロナウイルス感染が世界的に拡大している。日本国内では2020年1月15日に武漢市に渡航歴のある肺炎患者からこのウイルスが検出されており、同市からの旅行者とその接触者、帰国した邦人合わせて16名の感染が確認されている。

 

その後、3700人以上を乗せたクルーズ船が2月5日以降足止めになった。だが船内の感染対策がお粗末なため、感染者が600人を越えることとなった。2週間後に乗客を下船させるが、無造作に公共交通機関で帰宅させたため、そこからも感染者が出ることに。厚生労働省職員もウイルス検査をせずに従来の職場に復帰したが、4人が感染していたことが発覚。

 

そして感染拡大を防ぐため、政府は2月26日に大規模イベント自粛を要請。続く27日には学校(小学校・中学・高校・特別支援学校)の一斉休校も要請。だが、これらの要請によってむしろ国内はパニックしてしまった。

 

イベント自粛によって、当日の開演3時間半前に中止にされたファンはチケット代は返金してもらえるものの、交通費は無駄になる。アーティストなどイベントの当事者は、億単位の損失となった。同時にイベントに携わる労働省、特に非正規雇用日雇い派遣の人々は仕事を失い、路頭に迷うことに。

 

学校一斉休校では、子供達は勉強したいのに勉強する機会が失われる。学校以外でも人同士で密着しうる箇所は閉鎖しているところもあるからだ。各学校休校に伴い、子供を持つ労働者は通常通りの出勤ができず、収入は減る。企業にしても営業時間短縮、お客様の減少の為、経済活動にも悪影響が出てきた。

 

労働者に対する休業補償制度は政府から打ち出されたが、非正規雇用フリーランスは当初正規雇用のような給付ではなく、貸付とされていた。だがこれについては、安倍晋三首相が正規、非正規を問わず休職した保護者を対象にする新助成金制度をはじめ、本年度の予備費を活用した緊急対策の第2弾をまとめていくという考えを示した。

 

ここにきて政府は新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正を目指している。安倍首相は野党5党党首らと国会内で個別に会談し、「緊急事態宣言」を可能にする新型インフルエンザ対策特別措置法改正に向けて協力を要請した。立憲民主党枝野幸男代表は最大限協力する考えを示したが、協力の条件として、安易な緊急事態宣言は避けるように要求した。

 

だがこれは非常に危険だ。緊急事態宣言が発動されると、
・対象となる期間や区域を指定し、都道府県知事による外出自粛の要請、施設使用停止の指示などが可能になる
・国民の行動や基本的人権が制約される
・期間が2年で、1年延長可能
・記録がきちんと残されない恐れや、国会への報告も簡単に済まされてしまう恐れがある

などの弊害を伴う。特に国民の行動や権利が制約されるのは辛い話。今の時点で子供達が学校が休みの中、居場所も事実上なくなっている。子供達にはかわいそうな話だ。

 

また、緊急事態宣言をするということは、東京五輪中止を決定づける事になる。それだけ危険な状態だと宣言している国にわざわざ選手や国民を行かせる国などあるわけがない。その矛盾は認識すべきだ。

 

冷静に考えれば、ここまで追い込まれた状況になった背景には、東京五輪を中止にさせたくないという思惑からだ。政府や五輪関係者は金や利権があるから東京五輪を開催したいのだが、そのために政府がやったことは、感染者を少なく見せたことだ。実際、日本のコロナウイルス対応は世界的に見て遅いと批判されている。

 

結局のところ、緊急事態宣言は政府の対応の遅さといえるし、逆に東京五輪中止回避のためと同時に緊急事態宣言を発動させるために対応が遅くなったともいえる。だがそうした政府の思惑のために、ツケを払わせるために国民を犠牲にすることは許せない。そうした犠牲の上に国民の行動を束縛するのは最悪だ。

 

立憲民主党枝野幸男代表は条件付きで協力する考えを示し、13日には特措法改正案が成立の見込みと報じられているが、これは許してはならない。枝野氏には今一度考え直してもらいたい。国民生活と権利を守るためにも、他の野党がなりふり構わず特措法改正を阻止してほしい。そうしないと、コロナウイルス対応を口実に昨今のような悪政がいつまでも続く事になりかねないのだから。

 

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最後に、枝野幸男代表の安倍首相との党首会談についてのツイートを紹介。このツイートを起点に長い連リプになっているが、全てご覧になった上で枝野代表、あるいはその他与野党に対してご意見を出していただければと思う。もちろん私は、緊急事態宣言のための特措法改正については危険なので、どんなことをしてでも反対してほしいと思っている。

何より、緊急事態宣言を出さなくてもいいように押さえ込むことが政府の責任なのだから。

 

 

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サッカーのVARは長時間試合が止まり、試合展開をややこしくする。まずは1年間様子を見よう。

2020年のサッカーJリーグ(J1・J2)が開幕した。今年は夏に東京五輪が控えているだけに、23歳以下やOA枠出場が噂される選手は特にアピールしたいところであり、代表戦しか見てないサポーターも燃えるはずだ。そして今年はJ1リーグでVAR(ビデオ判定)が導入されることになっている。そのVARが早くも問題点を露呈した。

 

先に断っておくと、私はサッカーのVARには反対の立場だ。昨年の時点で今年のJ1での導入は決まっていたが、今でも内心難色を示している。

 

VARに反対の理由は2つある。
1つはサッカーという競技が持つスピーディでダイナミックな展開が思わぬところでブツ切りになり、本来の魅力が削がれたり、サポーターの中にはテンションが途切れる方もいると予想できるからだ。VARがなかった昨年まででも接触プレーで怪我人が出ても、笛を鳴らすのが遅く、攻めている側がプレーを止められてガッカリした表情を見せたり、そのチームのサポーターがブーイングをするのを見ればわかるはずだ。勿論怪我人の出たチームへの安全や配慮は必要だが。これがVARならば止まる時間が更に長くなることも考えられ、やはりテンションの低下につながるだろう。

 

もう一つは判定が覆りやすくなることだ。今までサッカーにおいて、基本的には審判の判定は覆らないことになっていた。名選手ほど「誤審もサッカー」という割り切りを見せていた。だから1986年W杯準々決勝アルゼンチンvsイングランド戦でのマラドーナの「神の手」が伝説として認められている。当時のマラドーナイングランドゴール前まで攻め込み、ゴール前でボールが浮かんだ際に、イングランドGKピーター・シルトンとの空中戦で先にボールに触れてゴール。だがこの時、マラドーナはヘディングではなく振り上げた左手でボールを叩いているように見えており、再生映像でも手で触ったことが確認。それでも主審はマラドーナのゴールを認めた。そしてマラドーナはインタビューで「ただ神の手が触れた」との名言を残した。

 

さすがにJリーグではそこまで露骨なハンドでのゴールが認められることはほとんどないが、それでもビデオ判定によって試合が混沌としたケースがある。

 

2019年ルヴァン杯決勝札幌vs川崎は両軍にとって同大会初優勝のチャンスとなった試合だ。激しい攻め合いで2-2のスコアで延長突入。その延長戦前半6分ごろに川崎DF谷口彰悟がファールからイエローカードを出されたが、その後ビデオ判定チェックで試合が止まり、数分後に谷口への判定はイエローカードからレッドカードに変更。最終的には数的不利の川崎が3-3のスコアから、PK戦を制して優勝したものの、後味の悪さは否めない。

 

今年の開幕戦では湘南vs浦和と横浜MvsG大阪でVARが発動された。

 

まず湘南vs浦和では、2-2で迎えた70分、浦和のペナルティエリア内での微妙なプレーにVARが発動。佐藤隆治主審は映像確認の「オンフィールドレビュー」を行うと、浦和DF鈴木大輔のハンドを取りPKの判定に。しかし、これを湘南FWタリクが決め切れず、湘南は逆転の絶好機を逸す。最終的には85分に浦和の関根貴大が決勝点を決めて2-3に。それでもあえて穿った見方をするなら、湘南の浮嶋敏監督は「自分の位置からはハンドかどうかわからなかった」というだけに、ハンドでのPK判定を得た湘南の方がリズムが狂った気もする。

 

そして今日NHKBSで見た横浜MvsG大阪でもVARが発動。1つ目は、前半34分の事。G大阪GK東口順昭のロングパスから倉田秋が抜け出し、左クロスを送ると、矢島慎也のシュートが決まるシーンが一度はオフサイド判定だったが、審判が止めてビデオ判定のチェックをしたところ、G大阪の追加点が認められた。このしばらく試合が止まるシーンは見てる側には煩わしさを感じる。勿論ビデオ判定で得することになったチーム(ここではG大阪)にとってはラッキーではあるが。

 

2つ目は終盤の横浜Mの猛攻に対して、G大阪DF藤春廣輝ペナルティエリア内で相手シュートが手に当たったように見えたが、ビデオ判定チェックしたところハンドにはならず。

 

こうしてみると、昨年の札幌vs川崎(ルヴァン杯決勝)と湘南vs浦和については、VARで割を食ったと思える側が結果的には勝つことができたが、逆に得をした側の方が無意識のうちにリズムを狂わせた印象。横浜MvsG大阪については、明らかに割を食った横浜Mがそのまま負けた。もし昨年までのようなVARがなかったならば、少なくともG大阪の2点目はオフサイドで消され、横浜Mは勝ち点1かあわよくば3を拾うことができたはず。

 

まだ今年のJ1は始まったばかりだが、少ない例を取り上げただけでもVARには煩わしさを感じるのではないのだろうか。勿論割を食ったチームが勝つケースもあるが、当面選手にとってはやりにくく、サポーターはやきもきする展開が多くなるだろう。決まった事だからしょうがないとは思うが、まずは今年1年様子を見て、状況次第では考え直す余地もあるということをJリーグ関係者には肝に銘じてもらいたい。

もっと自分を大事にしたらどうだい?

何度も見てきたことだけど、今更ながら気になったので言いたい。
何で日本人は変にへりくだったり、下手に出ようとするのか?そしてなぜやたらと和や集団を重んじるのか?

 

会社勤めしていると、どうしても社交辞令とか年功序列などがあって上には逆らえないというのはある。何より給料がもらえるから、嫌な仕事でもとりあえず最後までやる。営業マンだったら特に新規開拓の際にはとにかく話を聞いてもらわなければならない。

 

コンビニや百貨店、レストランなどではよく「お客様は神様」という言葉が聞かれるはずだ。それだけ日本では「おもてなし」が非常に重視される。そしてそこで働いていないお客様や第三者はそれを見て好感を持つ。

 

一方、何かあるとよく我慢が求められる。仕事中体調が悪くてもすぐに帰してもらうのは難しい。お客様からクレームがきたら、よほど行き過ぎたレベルでない限り、黙って平身低頭で謝罪するのみ。また、社内のルールなどでどうしても我慢できなさそうなことがあると、「俺も我慢しているからお前も我慢しろ」と。

 

学校でも例えば部活で監督や教師に怒られると連帯責任を負わされることが多い。そして監督もさることながら上級生に対しては絶対服従という慣わしのある学校も少なからずある。

 

道徳の教科書でも見たことがあると思うが、「星野君の二塁打」は最悪なケースだ。
大事な場面で監督の送りバントのサインよりも自分の力を信じて強打したら、決勝点になってチームは全国大会に出場できたが、それでもサイン無視が原因で大会には出られないことになってしまった。これなどはまさに「個より和を重んじる」にこだわり過ぎるあまり、自分で判断する習慣が持てなくなる。要は自分がなくなるということ。

 

だが最初から頭下げてばかりや集団を重んじてばかりというのも内心疲れるだろう。そして日本では職場でも学校でもそうしたストレスを発散させる手段や場が少ないような気がする。そしてストレスが高じて、後輩や立場の弱い人に怒りがぶつけられることが多い。そして言いたいことも言えない人は言えないままどんどん悪循環に陥りやすい。

 

ただ人間はみんな同じように権利を持っているはず。本来なら人間みんな対等なはず。年功序列とか取引関係などはあっても、最初から怯む必要はないのでは。言いたいことがあればはっきり言えばいい。その方が相手にも真意は伝わるというもの。

 

そのためには、もっと自分を大事にしたらどうだろうか。会社にいて、役職者がいるからその人が帰るまでは無為に残業しようといわれても、あるいはそういう暗黙の了解があっても、仕事上問題がなければ定時で即退社すればいいではないか。
付和雷同な人生で楽しいか?
自分が我慢していることを他人に強要したり、巻き込んで幸せか?
そうではない、もっと自主性を持とうよ。自分で考えようよ。時には「個より和を重んじる」ではなく「和より個を重んじる」でもいいのではないか。
自分を持たないと、自分を初めから下だと思うと、いいように利用されるだけ。

 

そして自分の持つ権利というものに気づこう。そう遠くはないうち、その権利というものがいかに大事な事か気づく時がくるはず。もしその権利が奪われたら必ず後悔することになるのだから。

日本には多様性が求められている。昨日の石川優実さん「#KuToo」をよむ会は非常に有意義だった!

 

最近日本はどうも自由度がなく、多様性が求められていると思う。
例えば、ヒール着用や女性の眼鏡禁止などをはじめとする服装などの強制。
結婚する際、夫婦同姓が望ましく思われる。
他にもいろいろあるが、最近はこの2つが象徴的に思える。

 

先日、国会において国民民主党玉木雄一郎代表が選択的夫婦別姓について話していたところ、突然「だったら結婚するな!」という心ないヤジが飛んだ。ヤジの主は自民党杉田水脈氏といわれている。

 

だが今となっては夫婦同姓にこだわらない人が増えている。むしろ今回の騒動をきっかけに夫婦同姓にこそ違和感を感じる人が増えていくのではないだろうか。同じ自民党からは某大臣が「子供を最低3人は産め」という発言(失言)があったのに、それと逆行してどうするのか?このままでは少子化の解消が遠のくのみ。

 

さて次はヒールについてだが、私は昨日、石川優実さんの「#KuToo」をよむ会に参加させていただいた。石川優実さんと切通理作氏によるトークイベントだったが、切通氏のトークは深みがあり、人を引き付けるようなところが感じられた。そして石川さんは初期のグラビア時代の性被害の苦しみ、以前おとなしめにしていたところから真剣に怒るようになるまでの変遷、フェミニズムジェンダーに対する意識が変わり真剣に学んでいることなどを聞かせてもらった。そして「クソリプは観念、賛同はファクト」という切通氏の言葉が強く印象に残った。

 

#KuToo に対する間違った理解がすっかり凝り固まり、それが石川さんや #KuToo に対する中傷・クソリプとなっていった。石川さんは #KuToo を通じて、「ヒールがダメな人が他の靴で働く権利を与えてくれ」「男性と同じようなぺったんこ靴で働かせてくれ」と訴えてきた。クソリプの中で多かった「ヒール否定」ではないのだ。最近は #KuToo が知れ渡ってきただけに、最近のクソリプはある程度理解した上での悪質な印象操作系が多いが、逆にまだ理解しておらず、固定観念だけで叩く人もいる。
私に言わせれば、文句があるならせめて #KuToo のことをある程度理解できてからにしてくれといいたい。

 

もう一つ、 #KuToo は単なるヒールによる安全衛生面やケガなどの不安だけでなく、女性だけがヒールを強制されることが性差別という意味合いも含まれる。そして最近は女性に対する眼鏡禁止令も出ている企業がある。本にも書いてあったことだが、企業側が女性に対して見た目の美しさを求めているのだろう。

 

また、我慢や教育についての話もあった。要は「みんなが我慢してやってるのだからお前もやれ」というようなことであり、そういう教育が日本では定着しているのが問題。私に言わせればこれこそ同調圧力の一種だと思った。

 

とはいえ雇用側は労働者の安全を守ることが義務付けられている。だからこそ労働者には自分達の権利があり、それを使うことは可能。それでも労働者が権利を行使しないのは、雇用側がそういうことを教えないからだ。このままでは働き方改革どころか各々の企業にとってマイナスでしかない。

 

質疑応答で印象的だった話は、石川さんや #KuToo へのクソリプを流す人は、どうも新しい事や未知のものに脅威を感じて抵抗しているのではということ。確かに前例のない事については、リスクを感じるし、上の言うことを聞くのが絶対と教えられた人には受け入れがたいのだろう。だがこれこそが前述した切通氏による「クソリプは観念」ということだ。

 

また、この #KuToo の本は非常にまとまっていると切通氏が言っていたが、確かにその通りだと思う。振り返ってみると、
「服装における男女差」「ヒール着用など仕事上強制されることによる辛さ」「労働法や権利のこと」「日本の我慢教育」など幅広く取り上げられている。またそれに対するクソリプ集や賛同者コメント集に見る大衆の思いも。非常に勉強になる一冊だろう。

私としても昨日のトークイベントは非常に有意義だった。

 

日本社会は「変化を恐れる」傾向がある。そしてそこで見られるのは、今まであったものを「否定するのか」ということ。だがこれは違う。今までにあった選択肢に新たな選択肢を加えればいいだけのこと。


現に #KuToo は、ヒールを否定してはいない。好きな人は履き続ければいい。
他にも選択的夫婦別姓についても、必ずしも同姓にしなければならないわけではなく、本人の判断に任せればいいだけのこと。要は自分の価値観が壊されたり、否定される気がして恐れているのだろう。だが決して否定ではないのだ。望むならば、新しい選択肢に乗っかってみればいいのでは。

 

これからは多様性が求められていく。自分が苦しいと思ったことは無理に我慢する必要はない。まして働き方改革を標榜するなら、身近なところから見直し、必要であれば声を上げてみよう。

 

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新宿占拠0112デモに参加。初めてだったが思ったより楽しく有意義だった。思うところがあるならぜひデモに参加すべきだ!

 私は昨日、新宿占拠0112デモに参加した。実はデモ参加は初めてだったが、思った以上に有意義で楽しめたと思う。

 

元々デモといえば、海外の国々の中にはすごく激しかったり、暴力的で怖いというイメージで見られることが多かった。最近の香港デモでは死人も出ている。そして日本では、デモに参加すると就活が不利になるとか、親が許さないというケースが見られる。そういう意味では、デモに対してネガティブなイメージを持つ方が特に日本では多かったのではないだろうか。

 

だが私が参加して思ったことは、「怖くない」「危なくない」「緩く、楽しめる」というものだった。

 

今回の新宿デモでは3つの梯団に分かれてのデモ行進だったが、コールは時事情勢を反映したもので、シンプルなコール形式・肉球新党スタイル・ダンスを織り交ぜた形式となっていた。初心者や政治放置層でも楽しめる、安心して参加できるものだった。

 

新宿周辺を1時間ほど行進したが、誰でも気軽に楽しめる中でも、参加者たちの本気度やエネルギーは感じた。そして新宿駅南口周辺を歩いていた時には、歩道や上の橋で立ち止まっていた人々も何か私達デモ参加者に期待しているように思えた。やはり政治腐敗した現状に不安や不満を持つ方は多いということだろう。

 

そう考えると、やはりデモは侮れないと感じた。
例えばフランスでは2018年末の燃料税増税に反対する大規模デモが発生し、結果的には延期となった。
香港では未だ不穏な状況だが、逃亡犯条例改正案が撤回された。
日本にしても、昨秋の英語民間試験が色々問題視されたが、とりあえず延期となった。

 

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これでもデモを侮れるだろうか?
もちろん何でも思い通りに得られるわけではない。何より日本の場合は、事なかれ主義や空気を読むことにこだわり過ぎるのか、先述したような就活での減点、親など周囲からの蔑視、熱くなることへの抵抗感が見られる。また旧民主党への恨みや現政権に対する不信感で政治離れした人々も多く、「やってもムダ」「馬鹿馬鹿しい」と諦める傾向がある。

 

だがそれが現政権の狙いかもしれない。国民達の批判を巧く封じ、自分達の利権の為だけの政治を続ける。そして事あるごとに「悪夢の民主党政権」と吹聴することで、「(旧民主党系が多い)野党よりはマシ」と思わせ、選挙でも勝ち続け、やりたい放題。

 

果たしてそれでいいのだろうか?国民達がこのまま沈黙していれば、日本の政治・社会はもっと悪くなる。当然自分達の生活は苦しくなる一方だ。

 

ならばその政治への不満を溜め込まず、外に出せばいいではないか。デモはそのための抗議行動だ。
幸い日本のデモは、決して暴力的でなく、民主主義を遵守した形式だ。昨日の新宿デモにおいても、甲州街道沿いの大学では試験中の為、そのエリアのみ無音行進の配慮があった。また、思ったよりも堅苦しい「しきたり」などはなく、列に加わるのも抜けるのも自由。声を出しても出さなくとも自由。そういう意味では良心的で思いやりがある。何よりただ歩くだけでもその人数で規模が示され、いつでも気軽に参加する人が多ければ、それだけデモの本気度が確認できるというもの。

 

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だからこそ今までデモに抵抗感があった人々も、現状に不安や不満があればいつでもデモ行進に参加すればいい。そうすることで危機意識をみんなで共有し、団結力も生まれる。そして選挙に行かなければという思いも芽生えるはずだ。

 

直近の参院選(19年夏)では投票率がたった48.8%。つまり半分以下の有権者しか政治に参加してない中で、問題だらけの与党が勝利したわけだ。国民達もこれは恥ずかしく、悔しいと思うだろう。政治や社会に不安や不満があるからといって逃げたり、諦めている場合ではない。自分で気持ちを掻き立てられないからこそ、デモがいいきっかけになると思う。

 

今日本で良心的なデモを行う人々はそんな迷える人々を歓迎している。そんな彼らと共に有意義な経験を共有しよう。

 

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そして昨今は、色々物議をかもした桜を見る会において、税金私物化し、選挙違反も問われた中、反社会的勢力を招待している。そんな政権やそれに近い人々よりは、額に汗しながらデモを続ける人々の方が好感が持てる。そういう声が実は多い。少なくとも本音を隠しながら冷笑したり、どっちもどっちと吐き捨てて時間を無為にするのは卒業すべきだ。もっと自分に素直になろう。

 

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