凡人エリックの blog

いちこくみん「エリック」の思いを伝える場

高校時代パーマをかけるのがダメだったのは今考えても不可解。規則・規制で固めすぎるのはよくないのでは?

昨日からブログを始めたが、ふと思い出したことがあったので、そのことについて述べたい。

 

今はどうなっているかわからないが、私の出身高校では、パーマをかけることが禁じられていた。もちろん天然パーマは容認。一応進学校ではあったが、髪型でそこまでガチガチに規制する必要があるのか、今思い出しても疑問。

 

さすがにピアスやタトゥーまでは考えてなかった。だがパーマくらいでダメというのは厳しいと思う。進学校といっても、そこまで名門ではなく、スパルタ教育でもない。それならもう少し寛容さがあってもいいのではないか。

 

なぜ私が今頃こんなことを述べたか。実は高校1年の夏休み終盤くらいにパーマをかけてみた。それは自分の髪質の問題と高校野球で坊主が主流になっていたことへの反発みたいなものが理由だった。
パーマをかけた翌日、夏期講習の終盤の時期に登校すると、多くの生徒が驚き、私の方を一斉に見ていた。そして1週間後に夏休みが終わるのだが、同級生数人から「時期的に身なり検査があるからヤバイんじゃないの?」「坊主にさせられるかもしれない」と言われた。さすがに坊主は嫌だったし、生活指導の教師がやたら厳しく、大学入試の推薦でも支障が出ると思い、始業式翌日の帰り道にやむを得ず美容院に寄り、元の髪に戻すことにした。そして身なり検査も無難に乗り切った。

 

こうして考えてみると、当時の高校は本当に規則・規制で固めすぎているなあと思う。身なり検査でパーマがかかっているとわかっただけで坊主?冗談じゃない。もしパーマをかけて成績が低迷したなら考え直す必要があるが、そうでないなら髪型くらい自由でいいはず。同時に自分の出身高校も含め野球部は「丸刈りが基本」というのもいつしか疑問に思った。

 

高校野球丸刈りが基本ということなど、些細な事でも規則・規制で固めるのは、ある意味管理主義・全体主義というのではないか。これでは生徒たちは「上から押さえつけられるのが当然」と思いながら学校を卒業し、社会に出ることになる。それは自分の個性を出しにくくすることにつながる。ひいては上の人間の顔色を伺うだけの思考停止状態に陥り、最悪の場合、太平洋戦争末期の日本軍みたいに真っ当な判断もできないまま滅びるのと同様の展開になりかねない。

 

髪型一つで随分ムキになってしまったが、高校は義務教育ではないし、もう少しノビノビと、自分で考え、個性を出すのはアリだと思う。まして団塊ジュニア以降の世代は、テレビを見て育った映像世代ともいわれる。遊び心があってもいい。個人個人の主張や個性をある程度認めてあげないと、社会不信に陥る危険性もある。また、人の指導についても年月を追うごとに、管理主義など上から押さえつけるやり方、まして体罰などはタブー視されるようになった。要は「褒めて伸ばす」ことがスタンダードになりつつある。

 

こうした時代の流れに遅れると、人間の感性や思考が錆びついてしまうということを、大人の世代が理解すべきではないだろうか。